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プロミスIT企画部

 私がプロミス株式会社に入社したのは、1996年9月のことである。面接の内容は覚えてはないのだが、ポテンシャル採用で大手町にある本社で勤務していいということで、9月に採用となった。

 入社後、最初に私は本社経理部に配属になった。その頃のプロミスをはじめ、消費者金融業界大手は、銀行を凌ぐ好決算の数字をたたき出していた。業界大手4社とは、武富士・アコム・プロミス・アイフルの4社を指し、プロミスは業界3番目の会社であった。

 私が入社した年に、本社で新システムを導入する話が持ち上がっていて、中央クーパーズという会社が外注のコンサルで大手町の本社内に常駐していた。一回、システム導入の会議に参加したのだが、隣の三和銀行本店の建物を見ながら、会議をしていたのが印象に残っている。

 翌1997年に私はプロミスIT企画部に配属となった。その年も、消費者金融大手4社は、好決算をたたき出したのだが、一方で、山一証券、北海道拓殖銀行が経営破綻した。当時の山一証券の社長が記者会見で、社員は悪くありません。と涙ながらに話していたのが、印象に残った。

 翌1998年には、当時のプロミスの主要取引先金融機関である日本長期信用銀行が経営破綻してしまうのだが、その一方で、当時のプロミスの経営陣はIR活動の一環として、イギリスの海外投資家にIRの説明のため、海外出張している。

 私は、1998年6月にプロミスを退社するのだが、その年、プロミスの社長は創業者一族の神内博喜氏に交代した。尚、創業者の神内良一氏の子息である神内英樹氏は、プロミスをその年に退職した。

 当時のプロミスの研修センターが東京都八王子市のはずれにあった。中途入社の研修で貴重な経験をしたのだが、そこには、プロミスの社史がある。プロミスは、元々関西の会社であったが、1980年代のサラ金のあり方が社会問題化した後、日本生命から社長を受け入れる形となった。プロミスは、信用金庫、地方銀行と提携を結び、地方から、経営再建を図っていった。そして、最後に、現在の三井住友銀行と提携を結び、今日に至っている。

 武富士・アコム・プロミス・アイフルの大手消費者金融4社は、1990年代、各都市銀行がバブルの負の遺産の処理に苦闘している一方で、業績を拡大させていった。前述のとおりである。だが、利息制限法と出資法の金利のグレーゾーンの問題により、経営が行き詰まってしまう。武富士は消滅し、アコムは三菱UFJ傘下に、プロミスは三井住友傘下の会社となる。仮に、金利のグレーゾーンの問題がなければ、現在でも、消費者金融4社が謳歌した時代は続いていただろう。だが、金利差による過払い金の問題により、戦後、出来た消費者金融業界はなくなってしまうのであった。現在では、メガバンクをはじめとする金融機関が昔の消費者金融の役割を果たしている。このことについて、私自身、特に言及することはない。